昭和48年10月06日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受ける事が出来る。みてると言う事がない。」
先の世までもって行かれ、子孫までも残るもの、それは神徳以外にはない。然もその神徳は、信心すれば誰でも受ける事が出来る。それが神様の願いであると同時に、私共の願いでもなからなければならん。そこに神様と私共との願いが一致する一つになる。まあ言えばそれだけ簡単な事です。ところが神様の願いと私共の願いが一致して、してそこからお徳が受けられる、おかげが交流して来ると言うまでは、中々の所をを様々な事を通らなければならない わざわざ通らなければならないと言うのではない。
日々の生活の中に様々な問題があり、又難儀を感ずる。そういう問題の一つ一つが全部御神徳を受けて行く為の、いや信心を頂いて行く事の為の足掛かりだ、手掛かりだと頂いたら良いのです。尚それだけだから、そうすれば良いですねと解る訳だけど、それを実際手掛かりにする迄、足掛かりにする迄が、その時間が掛かる。またそういう素晴らしい例えば手掛かりを頂いておっても、それをとうとう手掛かりとしてし得ずして、只うやむやで終わって行くと言う様な事では、それが信心の手掛かりであっても。
お徳を頂く言わば材料というか、足掛かりであっても、それを無駄にする事になる。要はだからそういう信心を頂いて行く事の為の、手掛かりと言う物を、中々大事にすると言う事は、中々難しい事です。それを此処では御事柄として頂いて行こうとか、又は成り行きを愈々大事にして行こうと言う事なんです。だからそれを話を聞けば、なら全ての事に御の字を付けて行きゃあ良いんだなあ、全ての事の成り行きそのものを、合掌して受けて行きゃあそれで良いんだなあと言う事が、それが実は又難しい。
だから難しいと言う風に又頂かずに、是が信心の手掛かりだ、お徳の足掛かりだと言う風にね頂いて、まあいうなら水も漏らさんと言う事は、そういう日々の問題をそういう信心の手掛かりだと言う様な頂き方をして行く事なんです。中々一辺には出来ません。昨日或る問題、話を聞かせて頂きよりますと、成り行きを大事にして行くと言う事は起きて来る出来事の全てを、合掌して受けて行くと言う事なんだけれども、是は受けられないと言う事、いや受けてはならない事もあると言う事。ね、
例えて申しますと私が、愈々御信心を頂く様になって、椛目で人が助かると言った様なおかげになって来た時に、あの四年半と云う物は、もう一切合切を黙って受けて行く。合掌して受けて行く事に徹底さして頂いた。そしたら四年半、あと半年で五年の記念祭を仕えるという丁度半年前の春の大祭の直前に頂いたのが、例えて言うとほうれん草という野菜がある、そのほうれん草は血に肉になる大変栄養になる物だ、けど今までは私の上に起きて来る一切の事は有難く受けさせてもらうという生き方でお前が来たと。
それは丁度ほうれん草を引っこ抜いて来て、まあ土も付いとりゃ、ヒゲも付いとる、まだ枯れた赤い葉も付いておる。それをそのままジャギジャギ言う様な感じだったけれども、それを受けて受けて受け貫いて来たけれども、それはしか、四年半と言う修行期間の事であって、是を頂くと言う事はあまりもの事だ。だからほうれん草、事柄を頂くと言う事は頂く前に、まづ枯れた葉は取ってしまいヒゲのごたるとは取ってしもうて、根の赤い所もやはり滋養になるとはなるから。
只切って取らなければならないとこだけは取って、そして頂くと言う事を頂いた。それまでは金を貸てくれと言やあもう、お賽銭箱を引っくり返して、いや貸してくれじゃない、もう下さいと言やあもうそのまま、お供えをそのまま持たせてやるという様な事です、受けると言えば、どんなに棒にも箸にもかからんという病人を、先生お願いしますと言うて、その時分の御広前で、ある椛目に連れて来られたら、そげなとは連れて来たら困るよとは、私は絶対に言わなかったですからね。
皆さんも御承知の通りです、もうどんなに親が、親が見捨てた子供の例えば、病人がおりましたが、そげんたとでもやっぱり受けて来た。もう盲のお婆さんがです、それこそ椛目をまるでおば捨て山のごと思うとるねと人が言う様な事でも、それこそ姥捨山になって受けて来たですからね私は。だから私が受けると言う事は、家族中もやっぱり受けて来た。直子、光昭達が太り盛り、丁度太り盛りじゃありません、あのうまだ赤ちゃんの時分には、もうそれこそもう、肺病患者のもう青瓢箪のごたる。
ひょろヒョロするごたる人達がおんぶして育っとります。光昭ちゃんはだれ、直子さんはだれと言う様にですね、決めてからその守りをしてくれたんです。とてもとても人で考えるととても抱かしよる事でも、傍に寄らせるごともない時です。これはもう、皆さん御承知の通りです。だからそういう例えて言うなら、いくらそれが滋養になるからというても、泥もそのままヒゲもそのまま、赤い枯れとる葉もそのまま食べると言う事は、けどもそれは本当に是が出来るか出来ないかと言う事も。
神様はそれをじっと見ておって下さったんだろう。所がそれを徹底して行くもんだから、あと半年で記念祭という半年前に神様が、是からはもう食べにくい所は切ってしまえ、枯れ葉は取ってしまえと、まあ言う様なお知らせを頂いたんです。それ以来私は例えば、なら病人を預かると言った様な事はしませんでしたし、金を貸してくれというても貸しもしませんでしたし、また事実そう言う物が無くなってしまったです。
椛目の御広前から無くなってしまって、本当に修行したいという、信心修行したいと、修行生の方達になったし、又金を借りとか、金をあげなきゃならんと言った様な、まあほんに此処に前の様に、この人に幾ら幾ら金をかしあげたら楽に本当にこっちが貸そうごとしてならん人であっても、是はもう絶対私はもうそう言う事を致しませんでした。言うならば今日までに及んでおる訳であります。ですから信心で考えて、此処は食べられん、此処は頂かれんと言う所は付けて行かねばいけませんですよね。
昨日総代さん方親教会に、この大祭の日にちの変更事を言われておりますから、昨日はまた、お願いに秋永先生外五人の方が行かれました。そして何故変えなければならないかと云う事の、もう実に理由が薄い、もう無いと言うても良いくらい、いやむしろ私だん有難いとう思う事を、それだから変えなければいけないと言う事を言われた。だからもうどんなに考えても、今の話で言うと、切って捨てたいとい感じなのです。
私共が例えば十六日の御大祭日とか、又合楽で神ながらの日にちを訳もない、理由も無いのに変えるなんて、もう本当に自分の信心を切り刻まれる思いがするんです。私にしては、ですから、そんな事は出来ませんとちゅて、それこそ切って捨てたいごたる感じです。けれどもさあ是が私と親先生、私と親教会、合楽と親教会と言う事の場合は、是はなら切っても切れないものではないと言う事。そこに例えば今日私がいう、それは私共が信心の手掛かりとして、信心の足掛かりとして行こうとこう言うのである。
なら其処ん所をです枯れ葉のごと切って捨てたら良いじゃないか、泥が付いた所はそのー泥を捨てたら良いじゃないかと言う事ですけれども。切って捨てる事は出来んからです、私は昨日は是をなら清めて行こうと洗って行こうと綺麗に、そしてならちったあ髭んごとあるとか、食べられんとこでも洗ってからは食べ良かから、そう言う風な頂き方をしようと言うふうに、所謂信心の足掛かりとして、受けて行こうという気、だから難しいでしょうやっぱり、もう切って捨てる事は容易事です。
最後に親先生が仰る、私が言う事は聞かれんとのと仰った。はい聞かれませんというて切って捨てても良い訳です。そげな無茶な事言われたっちゃ聞かれませんち。まあ言うて切って捨てても良い所ですけども、そこをどうとか頂いて、お願いしながらですそれをなら切って捨てるのではなくて、綺麗に洗うて行くと言う事はどう言う事になるのかと言う風にです、まあ今考えさして頂いておる所です。
けれども、是はなら私に対する、合楽に対する信心の言わば手掛かりで、信心を進めて行く為のですよ、信心を高めて行く為の手掛かりとして、頂いて行くと言う訳なんです。信心をすれば、誰でも受けられるのが御神徳だと、だから只信心でなしにです、それをおかげと言う所に焦点をおいて、進めて行った分では御神徳は受けられん。信心と言う事は何事にも真心で、それを受けて行くと言う事なんですから。
それを私は神様からお許しを頂いて、頂けん所は切って捨てろよと、例えばこげな病人をお願いします。又こげな状態ですからお金を下さい、お金を貸して下さいと言うてもそう言う事は私の信心から切って捨てる様に、そういう理不尽な事を言うごたる事は、受けられませんよと、スパッと切っても良い様な事。けどもそこにです、なら切っても切れる訳もないし、又切る訳には行かない所はです。
いうなら、私達は難しいとこう言うのです。けどその難しいと言う事はです、なら信心を進めて行くために難しいのであって、けどその難しいことに取り組むということは、一段と信心を矢張り、高めて行く事なのですから切って捨てずに、そのままではジャキジャキで食べられません。だから洗って行こう清めて行こう、そしてそれを頂こう、そして信心の一段と上に進んで行く所の手掛かりにしようと言う事なんです。
まあ今日の所は、右とも左ともまだ解りません。今日は、八時に私に出て来いと言う事ですから、今日は、私が一人で行く訳で御座います。昨日は右なり、左なり話を決めてもらう、今日は、そのお礼に行かせてもらおうと思うとったけれども、まだそんな訳であるですから、神様はどう言う風にして、決めさして下さるだろうかと、まあ思わせて頂いとる訳であります。
例えばこう言う事は信心じゃなかと、例えば思う様な事の中でも、それを信心を高めて行くものに結び付けて行くと言う所に、いうなら水も漏らさぬ信心の稽古と言う事が言えるのじゃないでしょうか。此の事だけは切って捨てる。と例えば私は神様から頂いとる実をいうたらね。もう十何年前に受けられん事は受けるなと。是はどんなに考えも理不尽な事だと言う風な事は受けない事に、もうさせて頂いとるんだけれども、又こういう問題が起きておると言う事はです。
是は私共に言うならば、もう一段高い次元の信心に進めさせて下さろうとしておる、神様の御神慮だと言う風に思います。そこまでははっきり解る。ならそれを如何に洗って頂いて行くかと言う所が、其の儘頂けち言うたら、ジガジガでも良い訳です。そげん言いなさるならそげんしとくと言うて受けて行っても良い訳です。それではなら私達皆んなが、言わば枯れた赤い葉やら、泥の付いたまま頂く結果になる訳です。それではいけませんから清めて頂こうと、水洗いしてから頂こうと言う事になった。
なら清めると言う事は、水洗いすると言う事は、どう言う事かと言う事をです、まあ練らせて頂きながら善導寺に行きたいと。どうぞ皆さんも一つ、そう言う意味で本当のですね、神ながらな道が開けて来る様に、やっぱりお祈り添えをさして頂かんならんと思いますね。是は合楽の為ではなくて、本当に成程願いは大きい、和賀心時代を世界にしこうと言った様な大きな願いを持っとりゃ、矢張りもう辛抱の出来ない様な修行をね、神様はさせて下さる。そして信心の力を付けて下さるんだと言う風に思いますですね。
どうぞ。